ベンチャー企業の先駆け ダイヤル・サービス株式会社が『電話』で受ける社会的ニーズ(1)

2018年9月3日


1969年、日本初の電話秘書サービスを開始した会社が、今野由梨氏が率いるダイヤル・サービス株式会社です。1971年には、核家族が生み出した育児ノイローゼと子殺しの事件に心を痛め、母と子を救いたい一念で始めた「赤ちゃん110番」が、世界初の育児電話相談サービスとなりました。
その時代の世相を映す様々な「電話相談」。今ではどんな社会問題が浮き彫りになっているのか。また、様々な「電話」サービスを生み出し、ベンチャー企業の先駆けである、ダイヤル・サービス株式会社とはどんな会社なのか、電話相談員はどのように生まれるのか、今野社長に取材しました。

 「電話」を使ったニュービジネス

―――本日はありがとうございます。ダイヤル・サービス株式会社様とはどんな会社ですか。
今野(以下、敬称略) ダイヤル・サービス株式会社は1969年に創業し、2019年には50周年を迎えます。当時は、女性は家庭に入るのが当たり前で、会社に入っても「女の実質定年は25歳」という世の中でした。私は、三重県桑名市出身ですが、女性で東京の四年制大学に進学したのは、桑名市では私が初めてのことではないでしょうか。学生時代は、学生新聞の編集長をしたり、活発な青春時代を過ごしました。勝ち気でやる気満々だった私が、当時の「男性中心」の企業に合うわけもなく、就職活動ではたくさんの企業を受けましたが、面接で「定年まで働きます。」「社長を目指します。」と言ったため、どこも採用してくれませんでした。100%の失敗です。
私は思い悩み、「自分を生かせる職場は、自分で作るしかない」と考えました。私は幼い頃、戦争を経験しており、「世のため、国の人のため、役に立つ仕事をしたい」という強い思いがあって、それを実現するためには、自分で会社を作るしかなく、「10年後には会社を設立する」と決めました。そして、女性だけで設立したのが、ダイヤル・サービス株式会社なのです。

―――女性社長の先駆けなのですね。なぜ電話によるサービスを始めようと考えたのですか。
今野 「10年後には会社を設立する」と決めていたものの、具体的に何をすべきか決めていませんでした。ただ、女性の能力を活用する会社を設立する、新しい時代が求めるニュービジネスを作ると決心をしていました。私は、会社を設立するまで、様々なアルバイトを経験しました。産経新聞で校正をしたり、映画評論を書いたり、TBSの「街の歌声」というルポ番組でインタビュアーをしたり、新宿で有名な歌声喫茶「灯(ともしび)」でステージの演出や、歌集の編集もしました。

すべての経験が結晶した、電話サービスとの出会い

今野 すべての経験が身になって、未来に繋がっていきました。また、様々なアルバイトの経験によって、自然とネットワークも広がり、そこで運命的な出会いをします。三浦朱門先生、曽野綾子先生ご夫妻(※注.お二人とも作家)です。特に曽野先生は「働く女性」として尊敬をしていました。ある日三浦先生と曽野先生から、「あなたは海外で経験をすべき。ちょうど1964年にニューヨークで開催される世界博覧会の、日本館のコンパニオンを募集しているから応募してみなさい。」と言われました。夢に見ていたアメリカに行くことができるチャンスでしたので、応募をしたところ、非常に高い応募率でしたが、様々なアルバイト経験を買われて、合格することができました。

―――アメリカでは、どのような経験をされたのですか?
今野 アメリカに滞在中、刺激のある体験をたくさんしました。中でも、「TAS」というサービスを知りました。TASとは、「テレホン・アンサリング・サービス」という意味で、電話を使用し、会員制秘書サービスやカタログショッピングをする仕事でした。その会社の社長が女性であったこともあり、私は大きなカルチャーショックを受けました。日本にはないビジネス、ニュービジネスです。日本でも、電話を使ったサービスは、大きなビジネスになるのではないかと直感しました。
その後、ヨーロッパにも渡り、日本レストランでアルバイトをしながらビジネスの勉強をしてきました。ドイツでは、鍵を失くすと電話一本で届けてきてくれるサービスや、電話をすると何でも教えてくれるサービスを知りました。日本に戻り、アメリカやヨーロッパで得た知識をもとに、電話によるサービスをしようと考えました。

―――電話を使ったサービスはいかがでしたか。
今野 初めは、電話による秘書サービスから始めました。電話秘書は、当時ではなかなか受け入れられませんでした。しかし、若い女性が会社を作り、新しいビジネスを始めたことが話題となり、メディアの取材を受けるようになりました。さらに私が当時人気のあった深夜番組に出演したこともあり、一気に知名度が上がり、会員を増やすことができました。電話秘書サービスは、数多くの有名な方々が顧客になって利用してくれました。

高度成長期の歪で生まれた「赤ちゃん110番」

―――御社のキャッチフレーズには、「社会のニーズに対話力で応え未来を切り開く会社」とございますが、「社会のニーズ」とはどんなものですか。
今野 電話秘書サービスは、売り上げとしては赤字でした。しかし、「電話」という当時の「ニューメディア」を使ったサービスに手ごたえは感じておりました。次のサービスを検討していた頃、ちょうど日本は高度成長期です。核家族化が進み、夫は仕事で忙しく、相談相手のいなくなった女性が子育てに悩み、わが子を手にかけてしまったり、コインロッカーに捨てるという事件が起きていました。
母親が追い詰められ苦しんでいた時代です。私はこうした事件に衝撃を受け、「この国を何とかしなければならない」という強い思いで始めたのが、「赤ちゃん110番」でした。「電話」を単なる連絡手段としてしか使っていなかった時代に、「電話」の双方向性に着目し、母親たちの悩みを聞き、アドバイスをして、育児ノイローゼを解消することを、ビジネスにしたのです。これこそ、社会のニーズに「電話」で対応するニュービジネスであり同時に社会貢献ではないでしょうか。

―――「赤ちゃん110番」の反響はどうでしたか。
今野 1971年9月1日、「赤ちゃん110番」がスタートしました。その記事が朝日新聞の全国版に載ったこともあり、朝から電話が鳴りやまないほどの反響でした。そして電話回線がパンクしました。それだけ苦しんでいる母親たちが全国にいたのです。しかし、問題もありました。当時の日本電信電話公社(現NTT)には、電話を使ってビジネスを行うシステムはなく、相談料を取ることはできませんでした。課金のシステムをいろいろと提案したもののすべて「法律違反です。」と却下。そこで私は発想を転換し、様々な大企業にスポンサーとしてサービス提供料を出してもらい、ビジネスとして継続させました。苦境を乗り切りました。

―――「ニュービジネス」とは何ですか。
今野 赤ちゃん110番」では、今まで誰も考えなかった、「電話」という道具を双方向性の「メディア」として捉えれば、ビジネスになるのではないかと思い、実行し成功させました。ニュービジネスとは、今まで誰も気づかなかった、大きな国民のマグマ(潜在する想い)に「くさび」を入れ、それに応える仕組みを作りあげることだと思っています。

―――今の「社会的ニーズ」とは何でしょうか。
今野 今も基本的には、赤ちゃん110番ができた時代と変わっていないと思います。形は変わったかもしれませんが、核家族化だけでなく、少子化、高齢化による家庭や個々人の孤独化は相変わらず進んでいます。「世のため、人のため」という私に与えられたミッションは、完了していないと思います。私は苦労して国の岩盤規制を壊し、法律改正までさせて、ビジネスを切り開きましたが、後から続く同じ素晴らしいベンチャー達に、同じような苦しい思いをさせてはいけないと考えています。
私の会社では、内部通報制度の外部窓口「企業倫理ホットライン」というというサービスも行っております。これは企業の内部では話しにくい問題や、契約社員、派遣社員など声をあげにくい立場にいる方に安心して通報していただけるサービスです。企業にとっても不正行為やハラスメントの問題を早期に発見し対応することができます。。昨今、大企業での不正行為が次々に明らかになっています。「企業倫理ホットライン」はこうした問題、最近の社会的ニーズに応えるサービスと言えます。
(2)に続く
(執筆 東京都社会保険労務士会 HR NEWS TOPICS編集部 西方克巳)
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