ダイヤル・サービス株式会社とはどんな会社なのか、電話相談員はどのように生まれるのか、今野社長に聞いてみた。

「電話」を使ったニュービジネス
―――本日はありがとうございます。ダイヤル・サービス株式会社様とはどんな会社ですか。
今野(以下、敬称略) ダイヤル・サービス株式会社は1961年に創業し、2019年には50周年を迎えます。当時は、女性は家庭に入るのが当たり前で、会社に入っても「女の実質定年は25歳」という世の中でした。私は、三重県桑名市出身ですが、女性で東京の四年制大学に進学したのは、桑名市では初めてのことではないでしょうか。学生時代は、学生新聞の編集長をしたり、活発な青春時代でした。勝ち気でやる気満々だった私が、当時の「男性中心」の企業に合うわけもなく、就職活動ではたくさんの企業を受けましたが、どこも採用してくれませんでした。100%の失敗です。私は思い悩み、「自分を生かせる職場は、自分で作るしかない」と考えました。私は幼いころ、戦争を経験しており、「世のため、国の人のため、役に立つ仕事をしたい」という強い思いがあって、それを実現するためには、自分で会社を作るしかなく、「10年後には会社を設立する」と決め、女性だけで設立したのが、ダイヤル・サービス株式会社なのです。
―――女性社長の先駆けなのですね。なぜ電話によるサービスを始めようと考えたのですか。
今野 「10年後には会社を設立する」と決めていたものの、具体的に何をすべきか決めていませんでした。ただ、女性の能力を活用する会社を設立する、新しい時代が求めるニュービジネスを作ると決心をしていました。私は、会社を設立するまで、様々なアルバイトを経験しました。産経新聞で校正をしたり、映画評論を書いたり、TBSの「街の歌声」というルポ番組でインタビュアーをしたり、新宿で有名な歌声喫茶「灯(ともしび)」でステージの演出や、歌集の編集もしました。すべての経験が身になって、未来に繋がっていきました。また、自然とネットワークも広がり、そこで運命的な出会いをします。三浦朱門先生、曽我綾子先生ご夫妻(※注.お二人とも作家)です。特に曽我先生は「働く女性」として尊敬をしていました。ある日三浦先生と曽我先生から、1964年にニューヨークで開催される世界博覧会の、日本館のコンパニオンを募集している、と聞きました。夢に見ていたアメリカに行くことができるチャンスでしたので、応募をしたところ、様々なアルバイト経験を買われて、合格することができました。アメリカに滞在中、刺激のある体験をたくさんしました。中でも、「TAS」というサービスを知りました。TASとは、「テレホン・アンサリング・サービス」という意味で、電話を使った、会員制秘書サービスやカタログショッピングをすることでした。社長が女性であるあったこともあり、私は大きなカルチャーショックを受けました。日本にはないビジネス、ニュービジネスです。日本でも、電話を使ったサービスは、大きなビジネスになるのではないかと直感しました。その後ヨーロッパにも渡り、日本レストランでアルバイトをしながらビジネスの勉強をしてきました。ドイツでは、鍵を失くすと電話一本で届けてきてくれるサービスや、電話をすると何でも教えてくれるサービスを知りました。日本に戻り、アメリカやヨーロッパで得た知識をもとに、電話によるサービスをしようと考えました。
―――電話を使ったサービスはいかがでしたか。
今野 初めは、電話による秘書サービスから始めました。電話によるサービスは、当時ではなかなか受け入れられませんでした。しかし、若い女性がニュービジネスを始めたことが話題となり、メディアの取材を受けるようになりました。さらに深夜番組に出演したこともあり、一気に知名度が上がり、会員を増やすことができました。電話秘書サービスは、有名な方々が会員になってくれました。
高度成長期の歪で生まれた「赤ちゃん110番」
―――御社のキャッチフレーズには、「社会のニーズに対話力で応え未来を切り開く会社」とございますが、「社会のニーズ」とはどんなものですか。
今野 電話秘書サービスは、売り上げとしては赤字でした。しかし、電話を使ったサービスに手ごたえは感じておりました。次のサービスを検討していたころ、ちょうど日本は高度成長期です。核家族化が進み、夫は仕事で忙しく、相談相手のいなくなった女性が子育てに悩み、乳児を殺してコインロッカーに入れるという事件が多発しました。女性が狂ってしまった時代です。私はこの事件に衝撃を受け、「この国を何とかしなければならない」と思い、始めたのが、「赤ちゃん110番」でした。「電話」という双方向のメディアを使って、母親たちの悩みを聞き、アドバイスをして、育児ノイローゼを解消する。彼女たちの気持ちを聞くことをビジネスにしたのです。そしてこれがニュービジネスになりました。またこれが当時の社会のニーズで社会貢献ではないでしょうか。
―――「赤ちゃん110番」の反響はどうでしたか。
今野 1971年9月1日、「赤ちゃん110番」がスタートしましたが、朝日新聞の全国版の記事に載ったこともあり、朝から電話が鳴りやまないほどの反響でした。そして電話回線がパンクいたしました。しかし、問題もありました。当時の日本電信電話公社(現NTT)には、電話を使ってビジネスを行うシステムはなく、相談料を取ることはできませんでしたが、様々な大企業にスポンサーになってもらうことにより、乗り切りました。
―――「ニュービジネス」とは何ですか。
今野 「赤ちゃん110番」では、今まで誰も考えなかった、「電話」という道具を「メディア」として捉えれば、受けるのではないかと思って成功させました。ニュービジネスとは、今まで誰も気づかなかった、大きな国民のマグマ(潜在する想い)に「くさび」を入れることがニュービジネスなのです。
―――今の「社会的ニーズ」とは何でしょうか。
今野 基本的には、赤ちゃん110番ができた時代と変わっていないと思います。形は変わったかもしれませんが、核家族化は相変わらず進んでいます。「世のため、人のため」という私に与えられたミッションは、完了していないと思います。私は苦労して法律改正までさせて、ビジネスを切り開きましたが、後から続く同じような素晴らしいベンチャー達に、同じような苦しい思いをさせてはいけないと考えています。私の会社では、「内部通報制度」というサービスも行っております。これは会社が、自身の社員から、会社内部でおこっている問題を、企業に代わって受け付けるサービスです。ハラスメントに関する問題を初め、違反などをあらかじめ受け付け、企業に報告することによって、企業はその問題を早い段階で解決することができます。こちらも最近の最近の社会的ニーズと言えます。
(2)に続く
(執筆 東京都社会保険労務士会 HR NEWS TOPICS編集部 西方克巳)

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